脳には妙なクセがある 池谷裕二
ヒトの行動というのは、脳科学の発展によりいくらか分かってきたことがあります。
その中でも、割と不都合に思える不思議な行動というのも少なくありません。
そんな行動の背景には、ヒトならではの、他の動物には持ちえない「感情」があります。
その“不条理”とも言える行動と結びついた感情、すなわち「心理」を、本書では軽妙な文章で解き明かしてくれます。
脳は妙に自分が好き
他人の不幸を気持ちよく感じてしまう脳
最近、「妬み」についての面白い研究結果が発表されました。
まず、被験者に、社会的に成功してお金も持っていて、羨むべき生活をおくっている同窓生を想像してもらいます。
そして、「その社会的に成功してお金も持っていて、羨むべき生活をおくっている同窓生が、不慮の事故や相方のスキャンダルなどで不幸に陥った」という状況を想像してもらいます。
すると、快感を生み出す部位、すまわちドーパミンなどで知られる「報酬系」の「側坐核」という部分が反応したのです。
つまり、羨ましい人物の不幸を快感と感じているのです。
シャーデンフロイデという言葉があります。他人の不幸を喜ぶ感情のことです。
シャーデンフロイデは、脳回路に組み込まれたもので、どんなに表面を取り繕って同情するそぶりを見せたとしても、脳は他人の不幸を快感だと感じてしまっているのです。
これはもう、根源的な感情で、どうしようもないものなのです。
「他人の不幸をバネに」と自分を鼓舞するというのは、普遍的な心理なのかもしれません。
「ざまを見ろ」に至るプロセスとは
フェアではない行動をとった人、例えば汚職に手を染めて逮捕された役人が罰せられるのを見ると、脳の意外な部分が反応しました。
さきほど登場した部位です。
みなさんは、もう、お気づきですよね。
そう、「側坐核」です。
おそらく、罰を受けている人を見て、悦に浸っているのです。
脳は妙に知ったかぶる
「やっぱりね」は、それほど「やっぱり」ではない
「アガサ・クリスティーが生涯に何冊の長編小説を書いたでしょうか?」という質問を被験者にします。よほどコアなファンではない限り、予想もつきません。
回答の平均は、51冊です。
実際には、66冊なのですが、しばらくしてから同じ回答者に正解を伝えます。
その上で、「あの時、あなたは何冊だと推定しました?」と聞いてみます。
驚くべきことに、回答の平均値は63冊にまで増加するのです。
「かつての自分は、正解こそしなかったとはいえ、それでも正解に近い数を回答していた」と思い込んでいるのです。
私たちには、「自分は割と正しくこの事態を予測していたのだ」と勘違いするクセがあるようです。
つまり、「やっぱりね」という時の「やっぱり」は、それほど「やっぱり」ではない可能性もあるわけです。
避けようにも避けられない「後知恵バイアス」の不思議
上記の認知ミスは、「後知恵バイアス」と呼ばれ、日常生活にも多く見られます。
「あの時に株を売っておくべきだった」
「もっと慎重に運転していれば」
「うっかり酒の勢いで」
「あんな高いソファーを買ったのに使わないのなら、買わなきゃよかった」
などのような後悔の念も、あたかも「因果をはじめから知っていた」とでも言いたげな姿勢が前提となっています。
この「~すれば / していればよかった」という「後知恵バイアス」は根強いもので、避けようと注意してもなお取り除くのは難しいと言います。
だからこそ、謙虚になり、「今、自分の考えていることは絶対的に正しいとは限らない」と留意することが大切なのです。
脳は妙にブランドにこだわる
有機栽培、オーガニック食品…
健康にいいとされるこれらの農法を、私たちは何となく良いものだと信じてしまっています。
しかし、無農薬野菜は然るべき時に然るべき農薬を使用しないと、逆に痛みの原因となり、かえって体に悪いという研究結果も出ており、無根拠に「良い」と考えてしまっている私たちの思考の浅はかさが露呈してしまいました。
このような、先入観の影響は様々な場面で見られます。
ワインを飲むと、「内側眼窩前頭皮質」という、知的快楽を生み出す部位が活動します。つまり、おいしいワインを飲むことは快感なのです。
そこで、「5種類のワインを飲み比べてほしい」と依頼し、試飲前に適当にワインの価格を教えます。
しかし実際には3種類のワインしか用意されておらず、その中から適当に5回選んで飲んでもらうだけ。教える値段もデタラメなのです。
こんな、詐欺のような実験、どんな結果が出たと思いますか?
面白いことに、教えられた価格が高いほど、内側眼窩前頭皮質が強く反応していた、という皮肉な結果だったのです。
食事の「おいしさ」は含まれる化学物質だけではないということは経験的に分かっていますよね。それが、如実に表れた面白い事例です。
「高級料理を食べている」という実感もまた、カギを握っているのです。
ブランド、オーラ、ムード、カリスマ…
そんな見えざる力に動いてしまうのがヒトの脳なのです。
しかしこのことは、恥ずかしいことではなく、私たちの脳はそもそも「ブランド」に反応うように出来ているのです。
脳は妙に自己満足する
脳は感情を変更して解決する
たとえば、買い物でお気に入りの服が2つあったとします。洋服Aと洋服B。同じ蔵気に入ったのですが、両方買うだけのお金がなかったとします。断腸の思いでAを選びました。
さて、このとき、洋服AとBの印象はどのように変わるでしょうか?
これについてアンケートをとると、選択前に比べて選択後はBへの平均評価が低下することが分かったのです。
つまり、自分が選ばなかった方の洋服について、「それほど良くはなかった」と言えkンを変えてしまっているのです。
みなさんにも、こんな経験はありませんか?
欲しくても買えなかった服に対して、「もしお金があったとしても買わなかったかなぁ」って自分に言い聞かせようとする…
これらはまさに、「認知的不協和の解消」という心理行動の一種です。
自分の「行動」と「感情」が一致しないとき、この矛盾を無意識のうちに解決しようとするのです。
つまり、行動か感情かどちらかを変更するのです。
変更しやすいのは、言うまでもなく感情の方ですよね。行動は既成事実として存在していますから。
洋服Aと洋服Bは、初めは同じくらい好きだったかもしれません。しかし、自分はAを選んでしまった。その行為は変更できません。
そこで、「BもAと同じくらい好きだった」という先の感情を、「本音を言えば、Bはそれほどいいとは思っていなかった」と書き換えてしまうのです。
そうして、自分の中に「行動」と「感情」の不一致がない状態にする「自己矛盾の解消」を行うのです。
子どもにだって自己矛盾を解消しようとする心理がある
このように、心の不協和を無意識のうちに解消しようとする心理行動は。大人だけでなく子供にも存在します。
「そのオモチャで遊んでは絶対にダメ」とお母さんに厳しく諫められた時 と「遊ばないでね」と優しく言われて遊ぶのをやめたとき、子どものオモチャに多知る好感度を比べます。
すると同じオモチャであっても、優しく諫められたほうが、好感度が減っていることが分かったのです。
要は、優しく言われた場合は、他人から指示されたとはいえ、多少の自由が残り、完全に自分の意志で遊ぶのをやめたのとは異なります。
この、「強制的に遊ぶのをやめないといけない、というわけではない」という「感情」と、「遊ぶのをやめた」という「行動」の矛盾を解消するために、「遊ぶのをやめた」という行動に見合う感情を引き起こすのです。
「遊ぶのをやめたのだから、そのオモチャは大して面白くなかったのだ」というわけです。
脳は妙に使いまわす
何事も始めたら半分は終了!?
理由は、脳は出力することで記憶します。脳は、どれほどその情報を使ったか、を基準にして情報を頭に入れておくか判断します。
これは、「笑顔」という表情の出力を通じて、その心理結果に見合った心理状態を脳が生み出すのと似ています。
睡眠も、「寝る」という出力が先で、「眠い」という入力は基本的に後です。
「やる気」も同様で、やり始める(=出力)とやる気(=入力)が出る)というケースはよくありますよね。
掃除をし始めたら、俄然やる気が出てしまって止まらなくなった。
というようなケースです。
「何事も始めた時点で、半分は終わったようなもの」とはよく言ったもので、私たちの脳が「出力を重要視する」ように設計されているのです。
だからこそ、「始める」という最初にして最大のハードルを越えてしまえば、あとは「やる気」にまかせるだけ。
こんな風に、脳とうまく付き合って生きていけるようになれば、私たちの生活というのは、さらに生き生きとしたものになるのではないでしょうか。
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